2009/11/06

仕上げると
さらう

ある時期をもって
仕上げていかなければならない

仕上げるのと
技術の正確さ

正確なテクニックだけの音楽ほど
つまらないものは無いと思う。

正確なテクニックが不可能なために
他のもので補うという場合もある。

技術を確実にするためには
絶対的な時間が必要である。

ある音楽的方向性に向かうため
技術の正確さを投げ捨てなければいけない時がある

音楽が求めるために
技術をあえて崩壊させることもある。

音楽性と技術のバランスは
非常に微妙である。

なるべくなら技術を放棄しないためにも
それなりの正確さを
さらっておかなければならない

仕上げるという行為は
どこかで技術を犠牲にして
音楽的に、
その時に演奏する
その時の形を決めることに思える。

技術を鍛えるのには
時間と体力が必要だが
曲を完成させるためには
精神力と集中力が必要である。

演奏するという行為は
曲を正確に弾く事ではなく
表現するという事が
より重要だと思う。
人によるが。。。私は。

さて、ふと気付いたのだが
徹底的に日本的なものを排除して
笙らしさを排除して作曲された曲
にもかかわらず
私はもの凄い日本的なものを
感じてしまっている事に
今日気がついた。

そんな矛盾の中に見えるものこそ
私の求める音楽なのかも知れない。

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