奉納演奏の話題は
また後々書くとして。
今日は音に対する感覚を書いてみようかと思う。
書家の柏木白光さんが
書を書く時の筆先の感覚を
話して下さった時がある。
書く瞬間、
筆の先の毛先の
一本の毛先まで
意識する
と。
その話を聞いた時
大袈裟な~
ウソだ~
(失礼)
などと思いながら
ふんふんとうなずきながら
聞いていた。
いやいや
それは疑ってかかっているのではなく
ただただ自分の中で実感できないから
理解できなかっただけなのだが。
その話を聞いてからしばらくして
その感覚がわかるような気になってきた。
それは自分が演奏している時もそうだし
他の人の演奏を聴いた時もそうだ。
バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ。
私が持っているのはシギスヴァルト・クイケンの演奏。
この演奏を聴いているとヴァイオリンの弓についている
松脂の粒一つ一つを意識して弦を響かせているのではないかと
思うほどその音一つに意識が集中している。
そういえば確かに私が笙を演奏する時もそうだ。
笙のリードには青石といって孔雀石を粉末にしたモノが塗ってある。
それはちょうど弦楽器の弓に塗る松脂と同じような役割を果たし
空気の抵抗となってリードを振動させているのである。
演奏する時はその僅か数ミリのリードの先端と
さらにはその青石の粒一つ一つを感じながら演奏している。
リードと吹き口は離れているモノのその息の圧力によって
それを感じているのである。
いやいやそう考えてみると
木管楽器のリードは直接口に触れているのだし
その一つ一つ
どの部分が振動しているかを感じているのだろうし
金管楽器は自分の身体=唇が振動するのだから
唇のどの部分がどれだけ振動しているのか感じているに違いない。
今日ふと気がついたことなのだが
いや意識の上に上がったと言うべきだろうか?
演奏するという行為は常にこの楽器と相談しながら
行っているのである。
自分はいつもと同じようにやっていても
楽器がそうならない場合は
楽器に身体を合わせないといけないのである。
いや・・・
そんな難しいことではなくって・・・。
車を運転する時に
この角を右に曲がる時に
ハンドルを何度傾けるか・・・
というのは車によって変わってくるのであって
そんな事を意識すること自体がおかしい。
原因と結果と方法と・・・
どの視点で見るかで
やり方が変わってくる。
さてさて
全くもって不思議なことなのだが
筆を持って書いている時に
全ての毛先がどこにあって
どう動いているのか
持っている筆の振動で
把握できるのである。
それをコントロール出来るか
出来ないかはその時次第なのだが・・・
人間の感覚とは
不思議なモノである。