2010/11/26
劇的なんて表現があるけれども
演劇は意外と劇的でないのかも知れない。

というと語弊があるかも知れないが。

音楽の時間の流れと
演劇の時間の流れは明らかに違う。

演劇のための音楽といえば
せいぜい演劇の後ろに流れていて
役者の台詞の邪魔をしないようにする
背景音楽でしかないのがほとんどだが
私は過去の二作品で音楽を中心に
役者が台詞(せりふ)を言う方法を試してきた。

私はこれを
「歌のないオペラ」
と名付ける。

音楽に沿って台詞を言うことで
演劇だけでは決して作り得なかった
違った「間」が生まれる。
台本を読んで芝居をしていたものが
楽譜を持って芝居をしなければいけないが
目先の道具がちょっと変わっているだけで
中身は全く違わない。
そこに気付いてもらうまでは少々時間が掛かるのだが。

これこそが異分野で交流する意味だと思うが
かつて共同作業の名目の下、
大根役者の伴奏に徹する
奴隷を要求されたこともあった。

しかし、オペラ歌手が楽譜が読めるからといって
これをやっても全く意味がないのである。

役者が芝居をすると同時に
音楽と融合してこそ意味があるのだ。

さてさて、前置きは長くなったが・・・

演劇の台本は書いているが
オペラの台本は書いたことがない。

むしろその方が好都合である。

普通の芝居の台本を書くのと同じように
台本を書いてもらい、
その言葉を集約し・・・つまり切り取りカットし・・・
音楽の中に内包していく。。。

また音楽側から必要な言葉も
作曲の過程で作ってもらう

そんな作業を進めていった。

台本が出来てきたのは2月。
そんな理想を掲げながら・・・
作曲は困難を極めた。

劇はあまりにも淡々と進んで行き
音楽の劇的盛り上がりとは
全く違う次元の劇的盛り上がりを
作っているのだ。
この全く違った時間感覚を
どう音楽として
つまり
ストーリーを忠実に伝えたり
意味を理解させるための
演劇的時間の作り方ではなく
「曲」
として成立させるか。

そのためには
台本をほとんど全く
編集して組み直し
「歌」を引き出し
楽曲として構成する必要があった。

・・・と書くと台本がちゃんとしていない
ような誤解を招くかも知れないが
これは全て織り込み済みのことなのだ。
台本の中から私の解釈の中
音楽としていく。
その解釈の元となるものは
台本の中にしっかり書き込まれているのだから。

さて
オペラの内容ですが
最初のページには


○登場人物
私ーソプラノ
ブラフマー …創造・激質・ラジャス
ヴィシュヌ …維持・純質・サットヴァ
シヴァ   …終局・闇質・タマス
業     …行為・カルマ…コロスとしての役割

○trimurti
ヒンズー教の世界観では、ブラフマー、 ヴィシュヌ、シヴァは三神一体(トリムルティ-trimurti)を形成する重要な神。三神一体は宇宙原理の中でブラフマーは創造を、ヴィシュヌは繁栄維持を、シヴァは破壊を担当するという考え方。そこから三神は実は宇宙原理の三つの顔であり、究極的には三神は一体のものであると説かれる。

笙×ソプラノ×演劇

○meditation
[名] (特に宗教的な)瞑想、黙想
インドでは極めて古くから瞑想が行われており、紀元前25世紀ごろに栄えたインダス文明の遺跡モヘンジョダロからは、座法を組み瞑想を行う人物の印章が発見されている。
紀元2~3世紀ごろにパタンジャリが、瞑想の技法を体系づけ、その技法を継承する集団が形成されるようになった。その瞑想は「ヨーガ」と呼ばれ、継承者集団はヨーガ学派と呼ばれている。意識をただ一点に集中させ続けることによって、瞑想の対象と一体となり、究極の智慧そのものとなる。

○業・輪廻
輪廻(saMsAra サンサーラ)とは、生き物がさまざまな生存となって生まれ変わることである。
業(karman)とは行為のこと。行為は行われた後に何かしらの効果を及ぼす。努力無しで、目的は達せられない。しかし、努力はいつも報われるわけではない。報われないことがあるのは何故か。業の理論はそれを「前世における行為」のせいだとする。行為の果報を受けるのは次の生で、この世では努力しても上手くいく場合といかない場合がある。その処遇の違いは、前世に何をしたかで決定される。行為は行われた後に、何かしらの余力を残し、それが次の生において効果を発揮する。故に良い行為は後に安楽をもたらし、悪い行為は苦しみをもたらす(善因楽果・悪因苦果)という原理は貫かれる。業は輪廻の原因とされた。生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。これが業による因果応報の思想である。


と書かれてある。
そして、プログラムの解説には


~神は世界を咀嚼する~

私は樹の幹の前に立ち、瞑想する。瞼を閉じることで日常から隔離され、ただ独りとなる。瞳に映る闇の中、そこには創造(ラジャス)の神ブラフマー、維持(サットヴァ)の神ヴィシュヌ、終局(タマス)の神シヴァが弧を描き静かに佇む。

神は私に祝福を与える。万華鏡を回転させるが如く世界の有り様、過去、現在、未来を色鮮やかに変容させていく。再構築されていく世界の中、業(カルマ)が私に語り掛ける。行為の象徴であり邪の存在である業の声は私の耳には届かない。しかしその声は呪詛の如き旋律となり、私の根幹を揺さぶる。

闇の中、神と業と世界と己と対話することで、私は幾多の発見をし、それらと向き合うこととなる。時空間を飛び越える瞑想の終着点において、私はある決定的で、致命的で、完全な唯一の事実を知る。

神は世界を咀嚼する。噛み砕かれ、粉々になる世界。私の首をめがけ、樹から紐が垂れ落ちる。瞑想をし、静かに私は世界と繋がる。


という訳でまずは最初の部分をご覧下さい・・・

つづく

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