2018/11/28

10月29日のリサイタルが終わりました。

沢山の方に聞いてもらいありがとうございました!

始まるまでが余りにも大変だったのでしばらく休んでいました。

思えば初めて笙を手にしたのが大学3年生の11月。
作曲専攻を飛び出し声楽へ移り、声楽を学びながら曲も作り続け
合唱曲の作曲コンクールに入賞しながら
卒業近くなり作曲で大学院への進学を考えていた頃でした。

その半年後に小野雅楽会ヘやっと入会する事ができ
もっと勉強がしたい、とできたばかりの東京芸大の雅楽専攻に入学したのは
習い始めて8〜9ヶ月後でした。

芸大は当時現代曲の演奏の実技も必修でしたので、易しいものから取り組みました。
一柳慧の《星の輪》辺りは新しい曲を始めるにはよい曲で、たぶんその辺りから始めたのでしょう。高橋悠治の作品なんかも吹いたかな。

私はもともと音楽を小さい頃からやっていたわけではなく、中三の終わり頃に初めてピアノを習い始めた。速い動きは指が回らず、だからといって子供向けの曲を弾くのは耐え難く、遅い曲や和音で弾ける曲を沢山弾いていた。

そんな私が何で「超絶技巧」と称した演奏会をひらく事になったのだろうか?

自分から最も遠いと思っていた場所に足を踏み入れるというのは。
人間10年20年とやっていると違う境地に踏み込めるのかも知れない。

だからといって私が日々地道に練習に励んでいたとも思えない。

当時1番難しいと言われていた一柳慧《時の佇まい》は全部で4楽章あるが、3楽章までは比較的すぐに吹けるようになった。(もの凄い練習したが)
しかし16分音符の連続する4楽章は当時は絶対無理と諦めていた。
そして湯浅譲二の《原風景》も。
ゆっくりな曲なのだが、あまりに音が入り組んでいて、私の手に負えるようなものとは思えなかった。
とはいえ、芸大を卒業する頃にはまぁまぁほとんどの曲が演奏できるようになっていった。

そして卒業の直前に書いたのが《呼吸II》。Iは大学3年生の頃書き、秋吉台作曲セミナーへ応募したが落選した曲だ。その曲も大学の学内演奏会で初演している。
あらゆる奏法を駆使し、笙が最大限に鳴り、効果を発揮する、技巧的な作品を作曲した。(当時)
その奏法と演奏と曲は当時人々を驚愕させたようで、国立劇場作曲コンクールの一位を受賞する。

その後もこの呼吸IIを演奏する事で様々な演奏のコンクールに入賞する。

2000年に初のリサイタルを開催し大成功を収めた。(新聞にも載り・・・CDも作り・・・)
そしてその年の秋に開催された現代音楽演奏コンクール。しかし揚々と意気込んだものの予選落ちし、審査員からは曲が悪いみたいな事を言われ・・・。その時に一位を取ったのがコントラバスの溝入敬三さんだ。
もうこのコンクールに入るには《時の佇まい》や《原風景》を演奏するしかないと落ち込んだものだった。

そしてすぐ翌年の2001年、時の佇まいを演奏するリサイタルを開催した。
(コンクールは無理。そんなテストの会場みたいな所で演奏し、楽譜を見ながら間違えればチェック)

ひたすら同じ音型を一年近くかけ練習し。
かくしてこの速すぎると思っていた時の佇まいは演奏できるようになった。

そうすると2003年のリサイタルではこれらを越える作品を創ってみようと思うようになってくる。当初は時の佇まいのように多楽章のいろいろな奏法を駆使した曲と思っていたが、呼吸IIIとIVの独立した曲となった。
呼吸IIIは16分音符が延々と続き、そこに対位法的に音が絡まったり、和音が入ったり、未知の世界の曲だった。
もうこれ以上は演奏不可能という限界ぎりぎりだったと思う。

その後の2006年のリサイタルでの笙と箏のための《Trio》や演劇と笙と打楽器の《時空寺》などはさらに難易度は増しているとは言え《呼吸III》の延長線上である。

そこへ殴り込みをかけてきたのが2008年の川島素晴だ。
《手遊び十七孔》
これは衝撃的に難しい、ある意味で大きく《呼吸》を越えた作品であった。
その時に誕生した木下正道、渡辺裕紀子作品もそれまでにない個性的な作品であった。

この時に私は笙一本持って世界に出て行けると確信した。

ここまでの道のりはとても長い物だった。

雅楽の楽器を使って現代音楽の演奏をしている団体はあるが、私はそこに所属しなかった。
それ故に全て1から自分で道を切り拓いていくしかなかった。
その団体で行動を共にしていれば多くの作曲家や作品、そして演奏の機会に恵まれていただろう。
それをしなかった私は自分で演奏会をひらき、借金を背負い、数年に1度しかできない演奏会に全てを注ぎ込むしかなかった。

その苦しさ、未来が見えず、
成功したとしても次はなく

これらがやっと実を結んだと感じられる演奏会だった。
これで私は世界に出ていく。
そう信じられる作品達だった。

そこまで全く世界が開けなかったものの、何故かその後いろいろとチャンスが巡ってくる。

その後に演奏会に出演を頼まれた小櫻さんはドイツを中心にヨーロッパで活動を行っていたし

そして、ベルリンに住む中国笙のWuWeiとの出会いは私を大きく変えたのかも知れない。

彼は私に言った、

「ヨーロッパに来い、必ず成功するから」

渡辺さんはグラーツへ留学したので彼女を訪ね旅にも出た

そしてそこでの出会いから文化庁の文化交流使としての活動ができる展開へと進んでいった。

それにしても

そこまでは最初の10年から

つぎの10年への期間であった

作曲家もとてもすばらしい作品を次々と生み出すようになり

見事に実を結んだこの10年であった。

 

そして、

何故この様な演奏会を企画したのか分からない。

ただ自虐的なだけなのだろうか?

自分に最大限の負荷を加え
できるかできないのか
それさえも分からない世界へ
自らを突き落とし

1日12時間練習してもできなかった

でも

一ヶ月休んでいま演奏してみると

意外とできるようになっていたりする

私が求める音楽は
難しいことではないんだ

何かに到達しようとして
必死にもがき
自分の音楽をみつけていく事

また次の10年はどうなっていくのだろう?

少なくとも今回のリサイタルで培った事は
乗り越えていかなければいけない

また未来をみながら

でももう僕の演奏家としての人生も長くはない

私が20年かかって到達したところは
若手は3年もあれば手が届くであろう

新しい世界をつくっていく事は簡単な事ではないが

死ぬまで前に進む事は終わりにしたくない

そういう世界で生きていきたいな

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