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2007/12/20
今朝、新聞に山下泰裕氏の柔道に関する記事が載っていた。

ロサンゼルスオリンピックは何年のことであったか?

私はその決勝の試合の光景を今でも忘れない。

何気なく夜中に見ていた無差別級?の決勝。
山下泰裕は足を引きずりながら登場してきた。

私のおぼろげな記憶によると
無敗を誇った彼がよれよれになりながらも
相手を押さえ込み、勝ったとはいえ
勝ちとは言えないような姿で金メダルを取り、
両手を挙げガッツポーズをした
あの時の姿は忘れられない。

勝負に勝ってどんなに嬉しくとも
負けた相手のことを気遣って
決して喜びの表情を表に出さない。

これは日本人のもっとも大切にする
他人を思いやるという文化である。
神道が宗教であるのか日本人の心の奥底にある
文化なのかは判断するのが難しい。
音楽にもコンクールというものがある。

最近違和感を感じるのは「優勝」という言葉だ。

腕を競う
とか
競合とか

勝ったのはだれとか

争うものではないのではないのか。

「柔道はスポーツではない」

ただ競技として勝ち負けを争うものではなく
自分より強い者や
自分が勝ったとしても
その相手の素晴らしさを感じる
そんなことこそ「柔」「道」なのだろう。

だから結果などどちらでもよい。

昔、「山下泰裕物語」なる
ドラマを見た。
無敵の彼は傲る・・・
しかし、すぐに気が付く
「実ほど頭を垂れる稲穂かな」

しかし、その上で
高く拳を振り上げ喜びをあらわにした
あの、ロサンゼルス五輪での
あの
山下泰裕の姿は
私にとって日本人の
もっとも尊敬すべき姿であった。

国際化の中でその一番大切なものは
「スポーツ」として勝ち負けこそ
唯一のものとなってきてしまっている。

そんな中で日本人の精神性というのは
どうやって説いていくのであろうか?
「勝つ」事こそスポーツの求める
結果であるが
どんなに素晴らしい「勝負をする相手」に
巡り会えるかこそが日本人の求める
美学なのかと

そんな見えないものを
いつまでも見失わないでいて
欲しいと思う
今日この頃でありました。
今朝、新聞に山下泰裕氏の柔道に関する記事が載っていた。

ロサンゼルスオリンピックは何年のことであったか?

私はその決勝の試合の光景を今でも忘れない。

何気なく夜中に見ていた無差別級?の決勝。
山下泰裕は足を引きずりながら登場してきた。

私のおぼろげな記憶によると
無敗を誇った彼がよれよれになりながらも
相手を押さえ込み、勝ったとはいえ
勝ちとは言えないような姿で金メダルを取り、
両手を挙げガッツポーズをした
あの時の姿は忘れられない。

勝負に勝ってどんなに嬉しくとも
負けた相手のことを気遣って
決して喜びの表情を表に出さない。

これは日本人のもっとも大切にする
他人を思いやるという文化である。
神道が宗教であるのか日本人の心の奥底にある
文化なのかは判断するのが難しい。
音楽にもコンクールというものがある。

最近違和感を感じるのは「優勝」という言葉だ。

腕を競う
とか
競合とか

勝ったのはだれとか

争うものではないのではないのか。

「柔道はスポーツではない」

ただ競技として勝ち負けを争うものではなく
自分より強い者や
自分が勝ったとしても
その相手の素晴らしさを感じる
そんなことこそ「柔」「道」なのだろう。

だから結果などどちらでもよい。

昔、「山下泰裕物語」なる
ドラマを見た。
無敵の彼は傲る・・・
しかし、すぐに気が付く
「実ほど頭を垂れる稲穂かな」

しかし、その上で
高く拳を振り上げ喜びをあらわにした
あの、ロサンゼルス五輪での
あの
山下泰裕の姿は
私にとって日本人の
もっとも尊敬すべき姿であった。

国際化の中でその一番大切なものは
「スポーツ」として勝ち負けこそ
唯一のものとなってきてしまっている。

そんな中で日本人の精神性というのは
どうやって説いていくのであろうか?
「勝つ」事こそスポーツの求める
結果であるが
どんなに素晴らしい「勝負をする相手」に
巡り会えるかこそが日本人の求める
美学なのかと

そんな見えないものを
いつまでも見失わないでいて
欲しいと思う
今日この頃でありました。


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