2009/07/08

私はまな板の上に横たわって
自分の運命を
包丁を持つ料理人にのみ
託したことはないので
まな板の上の鯉の心境はわからない。

ただ思うのは
舞台にのった瞬間
私をどう評価するかは
聴いている人にのみ
委ねられている。

人が
人の心を
コントロールすることは
絶対に不可能だと思っている。

いくら私が
最高の演奏をしようとも
それをこころよく思わない人もいるし
とても感動する人もいる。

いくらすばらしい曲でも
ある人の心を打つこともあれば
別に何とも思わない人もいる。

私はモーツアルトは
そんなに好きではない。
モーツアルトは偉大な作曲家であり
その演奏にかけるプレーヤーは
沢山いる。
そのすばらしい演奏を聴いても
その素晴らしさは理解できても
感動は出来ないかも知れない。

それはそれでしょうがないことなのである。

すべてのすばらしい音楽が
すべての人々を感動させることが出来るとは限らない。

だから、
私は大学での授業で
学生の前に立つ時でも
まったく持って同じ心境である。

私は私に出来る事をするだけである。
雅楽について知りたかったら
図書館に行って雅楽の本を1~2冊読めば
きっと私の授業を受けるより
雅楽についての知識は増えるであろう。

私が、それでも
学生の前に立ち
うまく話が出来無いながらも
話し続けるのは
私にしか伝えられないことがあるからと
自分自身に言い聞かせているからに他ならない。

ただ、学生が,それをどう感じるかは
いや、
どう感じようとも
私は,人が感じたことを
かえることは出来ない。

ストラビンスキーが「春の祭典」を初演した時、
最初のファゴットの高いC音が出た瞬間
サンサーンスを始め多くの作曲家や
評論家が席を立ち、
残った観客も床を踏みならし
演奏など聴けた状態ではなかったという。

それが、「そこにいた人」の思ったことである。

でも、それは
あくまで
「そこにいた人が」
どう思ったかの
割合がどうだったかだけの話である。

私は、大学生はもう一人前の大人だと思っている。

だから、今の今まで小学生に向かって注意するような
事は一度もしたことがない。

寝ていようが、フランス語の宿題をやっていようが
途中で出ていこうが、遅刻してこようが
メールしていようが・・・

果たして、私の講義に興味を持つ者が
このような行動に出るだろうか??

しかし、私がどんなにすばらしい講義をしようとも
興味を持たない人は持たないのである。

また、私が退屈な講義をしているから
興味を持たないとも言える。

そして、どんな講義をしようとも
興味を持つ人は持つのである。

私が出来ることは
私に出来る最大限のことをするだけである。
それでNoと言うのならいつでも
辞めますし、
必要としてくれるのならば
努力を続けます。

私の信念として
小学生に対するような注意
「ちゃんと話を聞きなさい」
とか
「授業中に席を立ちどこへ行く?」
とか
「ちゃんとやりなさい」
とか
そんなくだらない注意をすること自体
自分の無能さを露呈するようで
今まで一度もせずにいたが。

学生は大学に何をしに来ているのだろうか?

私の前には
一生懸命私の演奏と
話に耳を傾ける優秀な学生もいる。

その人たちを何とか活かすために
やってきたつもりではあるが、
それさえもおびやかすような気もする。

私の話がつまらないのは仕方のないことである。
口下手なんだから・・・。

しかし、演奏している最中に
ドアをドッカン~という音をさせ
教室を出て行ったり、
髪の毛をばさばさやったり
目の前で寝ていたり
演奏しようとした瞬間
鼻水をぐしゅ~っと
かんでみたり・・・。

意味不明すぎる

これを放置してきた私の責任でもあるが。

私は小学校の先生ではないのだから
道徳教育をしなければいけない義務もない訳である。

大人としての自覚を
もはや待っていられない時期になってきてしまった。

今日の演奏曲目
朗詠「二星」
一柳慧「星の輪」
「ムーンリバー」真鍋尚之編曲

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