2008/03/08
最近つくづく思うことがある。

あ~この演奏良い
と思う人と話をしてみると
音楽性や
音楽に対する考え方とか
ましてや性格や
価値観が共通する部分が多い事に気が付く。

前から演奏を聴いていると
その人の性格って大体わかる
(想像できる)のだが
実際に最近は確かめると
当たっていたりする。
厳密に言うと
「良い」と「上手い」とはちょっと違う。

「良い」ついては説明しようがない。。。
「上手い」いうのは
実力があり才能があり
これから伸びる可能性もあり
色々な部分で長けている人のことである。

「良い」というのは
「上手い」を含んだ上で「良い」場合もあれば
「上手い」がほとんどなくても「良い」場合がある。
ここ最近私の考えが
変わってきたのは
「上手い」より「良い」に
気持ちが向いてきたことだろうか?

自分と一緒に共演したいとか
自分の曲を演奏してもらいたい
と言うのは以前は
どちらかというと「上手い」
人だったような気がする。
これはきっと
自分より実力や才能のある人に
自分の音楽を認めてもらいたいと
いう部分もあったのだと思う。
こちらが「上手い」と思っても
相手が自分の音楽を受け入れてくれるとは
限らない。

それはまた、
私の音楽を良いと思ってくれていても
その人の音楽を私が受け入れられるかどうか
わからないのと同じ事でもあるのだが。
共感できる音楽家を見つけることは
非常に難しいことでもある。

今でこそ
本当に私の音楽に共感してくれているのか
或いは仕事として共演してくれているのか
(そんなに白黒はっきりするものでもないが)
わかるが
仮に私が地位や名声を得た時には
わからないものになってしまう可能性も
なくはない。
どうしても「上手い」人と共演する場合は
限られた練習回数をこなし本番をする
と言う図式になってしまう。
そんな何かの限られた目的の為に
支出し終えてしまうだけの短い
音楽ではなくて

何の目的に向かうでもなく
共感できる人と
共感できる演奏のできる時間を
長く持てないかと思う。
学生のように
気の合う仲間と
何にも縛られることなく
(ましてや商業主義の権力争いや
売れるための音楽などとはまったく遠いところで)
理想を追求していけるような
演奏ができれば・・・

感覚をことばで説明するのはとても難しいが

「良い」と「上手い」

「凄い」と「素晴らしい」

と言う表現にも読み替えることができる。
私が感じた「凄い」は

カルロス・クライバーであり
三善晃であり
N.ケネディであり
F.ヴンダーリヒであり
スヴェトラーノフであり
まだまだよく知らないが・・・ポリーニ

チェリビダッケもか
「素晴らしい」は
カラヤン
小澤征爾

・・・
挙げていくときりがない
私が「凄い」と思う
音楽家は
皆どこか病的なのです。。。

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