2008/03/12
HMVなどのユーザーレビューなどを読んでいると
うんざりしてくる

にわか評論家やら
往年の愛聴者やら
しまいには
ピアノ教師とおぼしき人まで出てきて
そのCDを聴いた感想について述べていく。

もちろん思った事はその人にとって
正しいことであり、
どんな素人であろうが
音楽家であろうが
評論家であろうが
その人が感じたことが
間違いであることはない。
私がいたたまれないのは
この曲ならこの人の演奏を聴いてみよ
とか
これはベートーヴェンらしくない
とか
ドイツらしくない
とか
バックハウスやらケンペやらを持ち出して
これこそ正当でこの演奏はダメ
みたいな文章である。
オーケストラやオペラなどなら
それ程多くないにしても
ピアノとなるとそこそこ弾く人口が
多い為なのかこのような発言が目に余る。
高校生のころ後輩がピアノの先生に言われたという。
グレングールドの演奏は聴かないでと。

グレングールドの演奏を聴いて
それをコピーするだけの感受性しかない
人なら聴かない方が良いだろう。

しかし、
その先生はもうその程度の
感受性しか無くなってしまったかもしれないが。。。
「高校生」である。
無限の感受性がその人の可能性を拡げていく
確率の方が高いはずだ。
私は小さいころから音楽教育を受けている訳ではないので
良くは知らないが、
どうもこの種の、
「ここはこう弾かなければいけない」
とか
「ベートーヴェンはこう、バッハはこう」
と決めつけられている。

バッハをロマンティックに感情たっぷりに弾いて何が悪いのだ?
私は「常識」という言葉が嫌いだ。
常識とは国や民族によって違うことは
容易に想像できるが
人によってもまったく違うものである。

この常識を持ち出して
いかにも博学であるがごとく
自分の常識に合わないものを
批判することは、浅学の露呈でしかあり得ない。

こんな狭い「常識」が
音大への音楽機械を大増産していく。

そしてそれを教える先生も
教わる生徒も
卒業して音楽家になる人も
ピアノの先生になる人も
コンクールに出る人も
コンクールで賞を受ける人も
楽譜の表面しか読めない
機械へとなっていく。
私のピアノの先生は
私が弾きたいように弾かせてくれました。
(半分あきらめていたんだろうが)
私がこう弾きたいと言うと
それを生かすための方法を
一緒になって考えてくれました。

音楽を教えるというのは
こういう事なのではないのでしょうか?

ピアノも弾けず
ソルフェージュもできず
聴音も採れない
そんな私を音楽家と認めてくれた
からこそ、今私は音楽家として
生きていくことができています。
数日前の新聞に吉田秀和の文章が載っていた。

ーーー
演奏を聴く時に良いとか悪いとかではなく
この演奏家はどんな演奏を聴かせてくれるのか
楽しみになってきた。
ーーー
楽譜には音の高さと長さしか
書いてないんです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください