2009/02/08

精巧にできたチューナーは
非常に便利である。

しかし、
一音楽家たるものが
チューナーを使って
調弦をしている姿を見るのは
どうしても抵抗がある。

ほんの少しまで前は
音を合わせる耳を持ち得ない人が
機械に頼っているという観点から
人前でチューナー使って音を合わせるなんて
恥だから絶対やらなかったと思う。

チューナーを取り出す時は
最初の基音となる音を出すため
位の役割であった。

その後は
5度や4度で
調弦していく。

出番があるとすれば
そのような基本的な調弦からかけ離れた
現代曲を演奏する時であろう。

私はこの便利な機械の
間違った使い方をよく目にする。

チューナーというのは基本的に
平均律
なのだ。

この人間の考え出した
非音響的な
あるいは
音が固定されてしまっている楽器にとっては
非常に便利な調律法というのは
鍵盤楽器にしか用いる事はない。

その平均律が
いかに不自然かを
初めて経験したのは
大学2年の頃
2つ下の高校の後輩が
入学試験に大学を訪れた時であった。

テューバ専攻の彼は
チューナーに合わせて音を
取っているのだが
その音程が何とも
気持ち悪くてしょうがない。

で、
微妙にそこ高くとか低くとか
直すと自然な音の流れになる。
でも、チューナーからはずれているのだ。

ピアノで聴けば何の違和感もないものが
他の管楽器や弦楽器、あるいは歌などで
聞くととんでもなく音程が悪く聞こえたりする。

本来人間の耳というものは
というか・・・
純正律が自然なのは至極当然の事なのである。

音というのは
物や空気が振動する事によって生まれる。

その1秒間の振動する数によって
高さが決まる訳だが、
自然な音階とは
その基音となる音の振動数の
整数比の振動数により作られているのであり
その分母が小さくなればなるほど
二つの音は協和する。

たとえば
a=440Hz(1秒間に440振動する(=ヘルツHz)音はa(ラ)の音)
を基本に下に
a,h,cis,d,e,fis,gis,a
という音階を考えた時

1/2の振動数の220Hzは
オクターヴ下のa

220Hzから
2:3の振動比のeは
330Hz

3:4のdは
293.333Hz

4:5のcisは
275Hzで

8:9のhは
247.5Hz

a-h-cis
とみな長2度ですが
振動数比は
8:9  9:10
となり
a-hの方が長いんです。

ハ長調でドレミだと
ドとレよりレとミの方が
間隔は短いのです。

え・・・
以下中略
(というか訳分かんなくなってきた)

ともかく
平均律というのは
そういう調性によって
長くなったり短くなったりする
半音の長さを一定にしどんなに転調しても
大丈夫にしたのが平均律なのです。

その便利な反面
一番綺麗に響く5度がうなるのです。
ドとソが綺麗に響かないのです。

ヴァイオリンにしても
他の弦楽器も
すべて
コントラバスは4度ですが
5度ずつ調弦していきます。

それが狂っていると
というか平均律で調弦など不可能でしょう。

私も大学時代
副科でヴィオラを取りましたが
まず最初に習うのは調弦です。

5度がぴったりあった時に
楽器はボワーー~~んと響きます。
二つの弦が共鳴し合ったところが
純正の5度です。

箏もこの5度で調弦していきます。

そして
笙も5度で合わせていきます。

これはピタゴラス律とも言われます。

先ほど純正律と書きましたが
この「純正律」というのもまた
数が沢山ありすぎて困るのですが。

私の認識では
人が自然に聴いて綺麗に響き合うのが
純正律という認識です。

5度で調律していくのが最適な音楽は
それでいいし
3和音の音楽は
5度プラス3度を合わせる。
それが大筋でしょうか?

笙の場合
5度で取っていくと
eから
h→fis→cis→gis
a→d→g→c
という取り方をします。

これは5度の純正で
笙の和音を吹くにはよく響きます。

しかし
たとえば西洋音階の
a・cis・e
ラド#ミ(ドミソ)

を吹くとラとミは純正で綺麗なのですが
ド#が高すぎてうなるのです。

長三和音の第三音は低めの方が
綺麗に響くのですが
この調律では高めになってしまい
どうしてもうまくありません。
平均律でもちょっと高めなのです。

でさらに
上の調律の仕方で初めて出てくる
半音であるhとc
この取り方だと結構狭くなるのですが
実際日本人の音感ではこれでもまだ広いのです。

俗箏の調弦というのは
都節音階と言われる半音の含まれる音階。

この半音を調弦しているのを見ていると
なんと半音を同時に鳴らしてやっているようなんです。

たとえば短三和音での第三音というのは
ちょっと高めなんです。
そこで半音を作ろうとするとかなり
高くなってしまう。

篳篥の越殿楽の
テーェリーテーィラ
ファミラーファソミ

なんてピアノで弾いてみると
全然違う音ですから。

そんな風に
音階とか調弦というのは
機械で計り得ない
本当に微妙な感覚があるはずなんです。

そんな事も知らずに
誤った使い方をすると
とんでもない事になる。

いや
いい響きさえ知らずに
何となく合っている事に慣れ
微妙な感覚をなくしてしまう事に繋がりかねない。

便利と退化は
表裏一体である。

常に自分の感覚を磨きつつ
それを補うのと
確認のために
便利な道具として
生命力を得るものである。

私の使っているチューナの
KORG MT-1200というのは
いろいろな純正律に対応しているので
笙の調律にも使える。

笙の調律というのは
他の弦楽器などが
音を少しずつ変えながら
合うまでずらしていくのとは違い
狂っていたら竹を外し
おもりを調節して
また吹いてみて
まだ違っていたら
外し・・・
その繰り返しなのである。

合っていないととりあえず
どちらかに動かして
合わせられる弦楽器と比べ
断然、手間が掛かる。

こんな時に
チューナーがあると
非常に時間の短縮になるし
確実な調律ができる。

あるとき
歌を歌うのに
音が下がらないように
試しに使ってみた。

やはりこれは
メトロノームと一緒で
一緒に演奏する物ではないと
確信した。

以前、チューナーを前に
笛を吹き高いたの低いだの言っている人がいた。
師はそれを見てチューナーなんてあてにするなと
怒鳴っている光景を見た事がある。
そんなのに頼るから上手くならないんだ。

チューナーのような便利な道具を信じない
古くさい言葉ではないのだ。

機械は
ある程度の目安や
確認のために使う物であり

自分の感覚を磨くためには
そういう物に頼らずになる事こそ
大切なのである。

その師が
機械なんか信用するな
といっていたのは
そういう事なのだと
私は感じた。

人は
チューナーも
メトロノームもない時代から
高度な調律法や
リズムを編み出してきた。

便利になったこの時代こそ
進化した高度な演奏をしているように思われがちだが
むしろ
便利が為に
退化してきているのではないかと
思えてしょうがない。

ちまたに流れている音楽
テレビから聞こえてくる音楽

何故あれほどまでに無機質のものが
当たり前に平然となってしまっているのか?

いろいろな感覚が麻痺しないように
常に研ぎ澄ましていたい

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