2008/12/17

音楽の世界には!?
「営業」
という仕事がある!!???

どっかの
温泉のロビーで演奏したり
ホテルのロビーで演奏したり

デパートのイベントで
演奏したり。

「演奏」
ではなく
「営業」

なかなか
この「営業」を
言葉で定義するのは難しいが

高い芸術性を
求めるのではなく
(といっては語弊があるかも知れないが)
目的は収入のため
(といっても語弊があるが・・・)

まぁともかく
芸術家であろうとも
お金をもらわないと
生活していけない訳だし・・・。

しかし、
私はある意味
この
「営業」を
辞めようと決意した。

それはもうだいぶ前である。

クライアントがいて
我々演奏者がいる。

当然
「営業」仕事では
クライアントの意向があって
我々はそれに従うだけである。

お金を出して
我々の音楽を
買うのだから
我々はそれに
従うのが当然なのかも知れない。

しかし、近年失われてきている
芸術家が芸術家であるための
プライドというのは
それがあるからこそ
芸術家なのである。

だから、
私は
ここ数年
「営業」という
仕事を辞めた。

いや
引き受ける仕事は
同じなのである。

しかし、
やる内容が全く違うのだ。

さて、
その定義できない
「営業」やら「仕事」
なるものは
お金のためにやるものであり
信念のためにやるものではない。

しかし、
お金のためであっても
信念に反しないこともあり
むしろ
信念に反しないように
最大限努力するべきである。

営業・仕事=クライアントの意向に従わなければいけない・自分のやりたいことが出来ない。

という図式をまず捨てなければならない。

そもそも私の演奏する笙という楽器は
その楽器の持つ特殊性や歴史性から
楽器を指定してくる以来が圧倒的に多く
別に私を指名してくる訳ではないのである。

私でなくても出来ることを

私がやるのか
他の人がやるのか

ただ、少なくとも
一年前か二年前かもっと前か・・・

確かに決意したことがある。

お客さんのためとか
依頼者の意向とか
わかりやすい曲とか
みんな知っている曲とか
楽しませて欲しいとか

そういう希望はわかる

しかし、知っている曲だから
楽しかった

というのはもっとも安易な
「楽しみ」である。

「芸術の大衆化」
という問題は
大衆のために
芸術のレヴェルを下げるという意味ではない。

むしろ本当の芸術こそ
大衆を引き上げることができる
ものだと思う。

その為には
いい演奏をして
難しくても
そこで何か感じてもらい
そこから一歩を踏み出すのが
本当の近道だと思う。

その為の分かり易い
「ことば」を付け加えればいい。

決して大切な部分は変えるべきではないと思う。

だから私は
子供に対しても
温泉宿での演奏でも
リサイタルと全く変わらない
内容で演奏することにした。

もちろん気持ちの上でも。

だから
私にとって
いま
「営業」
というものはない。

もし、
それがクライアントの
お気に召さなければ
「ごめんなさい」
と言うか
適当な演奏をして
お金だけもらって
喜ぶか・・・。

それだけにしかならないのだから。

今日もそんな話を
してきました。
いや
こんな具体的なことは言いませんが。

よく私の意向は理解してもらえたようです。

いや、私の演奏を聴いていないのだから
本当に理解してもらえたかどうかはわかりませんが。

しっかりと私のことばにならないことばを
聞き取ってくれたように思います。
(自己満足)

時間は短くても
私はここで
私にしかできない
最高の演奏をするでしょう。

それが私の答えとなる
事でしょう。

意に反しようがしまいが
しょうがなくやることで
判断されるより
自分のやるべき事をやって
あとは相手がどうとるか次第。

そんなことを思っていると
あの綺麗なスペースで
演奏できるのが
わくわくしてきた

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