2009/02/12
タダシさんのブログを読んでいて
思い出した。

ある時
私の曲の楽譜について聞かれた。
「ここのイメージはどういうイメージ?」(頭のいい作曲家のように論理的に説明してみ)
「楽譜に書いてあるとおりです」(おまえ楽譜読めねぇのかよ)
「この音符を書いた時の心境とか」(説明できないのかよ)
「音符に書いてあるのが私のイメージです」(言葉で言わなきゃ分かんないのかよ)
「例えば、森の中をさーっと風が吹き抜けるような感じとか
水がさらさら流れる感じとか・・・」(私はこんな風に教える事ができますよ:自慢)

え~
ぴよぴよさん風に構成してみました・・・。

事細かにここがこう盛り上がるところでこうできていて
と楽譜見れば分かる事を説明して差し上げましたが・・・

「ほぅ、ちゃんとイメージあるんじゃん」(まぁ期待した答えじゃないけどいいか)
「・・・(絶句)」

こんな人が高名な演奏家で世の中の脚光を浴びているなんて
信じがたく愕然とした。
楽譜を正確に演奏し(音程とリズムを)
それで完成したと思って
その先にさらに求める物は
その作曲家の生い立ちやら
どんな状況でその曲が書かれたとか
楽譜に目を向けないで
その手の話である。

たぶんこの手の人には
機械で演奏した録音でも聞かせると
お~完璧な演奏だ
と唸るかも知れない。
またある時
チェリビダッケがテレビの中で言っていた。
「ピッコロで小鳥のさえずりや
トレモロで木の葉が落ちるさまを表現しているなんて
子供だましだ」(だいたいそんな感じのことを・・・)
子供だましって言葉もどうでしょう?
子供の方がだまされないと思うのですが・・・。
むしろ大人の方がその言葉で「ほ~ぅ!」
とだまされているのではないでしょうか?
シノーポリが精神科医で
マーラーの曲に対する解釈が深いとか
この曲は数学的な何とかを用いて作曲しましたと
いかにも難しそうな事を言って自作の高貴さを説いたり
どっかの現代音楽を演奏する奏者が
数学を勉強するから休演宣言したりとか
だからスゴイと
結びついてしまうのは
大人だましであろう。

美術館に行くと
絵を見ずに横に書いてある
解説ばかり読む人を見かける。

解説を読んで
鑑賞した気になっている。
大学のある指揮法の講義を取っていた時、
指揮をして練習をするのだが、
「指揮をするという事はその作品を理解していないといけない」(そうそう楽譜の隅々まで)
「だから作曲家がどういう人だったのか
どういう生い立ちで育ったのか
どういう時代背景だったのか
どういう中でその作品が生まれたのか
調べておかないといけない」(・・・・・・・をいをい)

とまぁこんなことを
さも誇らしげに
論理派の学者肌の指揮者気取りで
話す人が居た。

指揮ができるか
演奏をまとめ上げる事ができるか
曲としてどのような方向性で演奏していくか
それを指揮することで音になることが
指揮者の役目だと思うのですが。

沢山話をした人の方が成績が良かった。

この方の楽曲分析と言えば・・・
ここは何調でここは何調に転調してる
くらいなもので・・・
だから何?みたいな。
さも緻密な論理的な
分析をしているようでしたが
転調の事実だけ言われてもねぇ・・・。
私はプーランクだかなんかの
合唱曲をぶっつけ本番の試験で
見事にあっと驚く!解釈で
演奏しきって拍手喝采だったんですが!?
どうも気にくわなかったようです。
まぁそんな訳で
私もニーチェでも読んで
誰かに何か聞かれた時に
崇高な作曲理念と精神性について
語れるようにしておこうかなぁ

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