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2016/04/17
俳句とか

和歌とか

短歌とか
詩でもいい
凝縮したことばの中に
いろいろな思いを詰め込んだ
形式の場合
そのことばの中から
その行間に
どんな考えがあるのかを
読み取るという作業は
想像力を膨らます上で
とても楽しい作業である。
特に
たったひとつの単語に
いろいろな意味を感じられる
言葉というものは
それだけで
深く考えさせられるものがあり
言葉の持つ力の偉大さを知らしめてくれる。
ただし、それは
おそらく
作者も
ことばに出来なかった
何かを
行間に潜ませているのであって
その行間を全て説明してしまったら
そこにあったことばの意味の魅力は
消えてしまうように思う。
そんな慎ましやかな
行間を読むという
想像力と自分の経験を
すりあわせて
行う作業
これは
おそらく
作者がどう意図したとかは
どうでもいい話であって
そこから自分が
何を共感して
自分の人生に活かしていくかが
楽しい作業なのであって
それぞれが
それぞれの解釈を生める作品というのが
いい作品だと思っている。
まぁ
日本の文学と
外国の文学の違いは
よく知らないが
俳句のように
短い中に様々な意味を込め
直接的でなく
いろいろなことを暗示するのが
日本人の奥ゆかしい美徳だとも思っている。
そこに
決まった答えはなく
それぞれが思ったものが正解であり
作者が全く意図していないものでも
それをそう感じたのであれば
それは作者の作ったもののひとつの解釈である。
しかし
そんな奥ゆかしい美徳も
逆の方向から見ると
非常に難解な日本人像を生むことになると
思っている。
長年私はこれに苦しめられていたのだと
行間というのは事由に解釈出来るものだと思うが
それをひとつの解釈以外認めない風潮
さらに進むと
空気を読め
という
全くもって
何も言っていないのに
理解しろと言う
とんでもない暴力的な発言になる。
そこには
ひとつの答えしかないのだ。
自分の意志を主張できない代わりに
相手が理解する能力が無いという言い方をする
この空気を読めない
という言い方。
あるいはこういう人もいた
「私は以前こういう事をこの人にされて嫌だった」
そう言う話を聞くと
ふーんそうなんだ
以外の何もないけど
訳(こういう事をしないで欲しい)
という意味を持っているんだ。
この種の話を聞かされるたびに
私はなんてひどいことをしてしまったのだと
そのひどい人と同じ罪を犯してしまったとの
自責の念に駆られてしまい落ち込んでいた。
このまま行けば
私は鬱病への道まっしぐらだったのだろうが
幸いにもどっかで
転機が訪れた
だいたいこういう人は
自分の意見を相手に伝える努力をせずに
相手が分かってくれないと非難するだけだ
そして何かの問題が起きた時には
他人のせいにするのだ。
自分の意見も考えも何も言っていないくせに。
まぁそんな人種がどれだけ多かったことか。
それがあたりまえの中に居ると
自分がおかしい人間だと思えてくるが
そうでないとこに居場所を見つけると
何とバカげていたことかと思えるようになった。
黙っていても
親鳥がえさを運んできてくれるのを待っているような
そう仕向けるような輩とは一線を画したい
自立した人と
関わっていこうと
そうすると
生きていくのが楽しくなってきた
答えの決まっている行間や
押しつけられた空気は
読まない事にしている。

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