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2019/10/06

私の人生の中でもなんと幸せな充実した数ヶ月であっただろうか?

もし明日にでも事故にあって死んだとしても

悔いのない人生であった。

 

今年の3月にパラグアイを訪れ
笙と弦楽オーケストラの協奏曲を演奏し
そのパラグアイからバリトンと子供・女性合唱とオーケストラの作品を作らないかと連絡が来たのが4月。
そしてそれからすぐパラグアイ戦争の資料を読み始め
5月にスペイン語の台本を受け取る。

スペイン語をドイツ語にgoogle翻訳し
大体の意味を理解し、
分からない部分をパラグアイに住んだ事もある音楽家に教えてもらう。パラグアイの音楽なども教えてもらいながら。
そして台本を読んでもらい録音する。

ここまででも大変な作業であったが、さらに作曲するにあたって何度も朗読の録音を聞き、リズムやアクセントを導き出す。

テキストは全11章に及ぶ。

元々は30分程度の曲という依頼であったが、台本の長さからもっと長くても良いという事になった。
私はこれを舞台作品としても上演できるオペラ/交響曲のような広大な構想を練っていた。

5月末にふと書き出した子供の曲は数時間で書き上げた。
なんとも不思議な力が湧いてきたように。

しかし、それからの作業は膨大で、労力を使い、またどれだけ書けば良いのか見当もつかず苦しい作業であった。

8月10日から手書きの清書を始めたが書いても書いても先が長い。
朝の6時(時には4時)から書き始め、遅い時は夜中の1時まで
もちろんずっと書いている訳ではなく、途中休んだり寝たりするが
ひたすらに書き進んだ。

作曲という作業は私にとってはとても苦しい作業である。
簡単に曲は作れない。苦しみながら音を絞り出す。
1日五線紙の前に座っていても何も書けない時もある。
今回もそんな日が何日もあったけど、
不思議と出来ない恐怖はなかった。
ただただ楽しくて仕方がなかった。

好きな音を好きなだけ書いてやがてオーケストラと合唱で演奏される。

その日を想像するだけで私の中には苦しみはなく喜びの感情しかなかった。

中学生の頃から作曲を始め、オーケストラと合唱のための作品を作るのが夢であった。オペラを作るのも夢である。
高校でも合唱部に参加し大学では声楽も学び、合唱曲のコンクールににゅうしょうする。
しかしオーケストラ曲を書いても演奏される事はなかった。

その他の器楽曲なども書いても演奏される機会さえない。
やっと上演の機会を得ても思った通り演奏してもらえず
あるいは演奏できないなどと言われ、
自分で指揮したり演奏したりするようになっていった。

誰も演奏してくれないのならば自分で演奏すれば良いと
笙で演奏を始める。
私はオーケストラのような壮大な世界を表現したかった。
だから笙1管でもそのような音楽を作ろうとしていた。
個人でオーケストラを雇える訳がなく、私の音楽を表現するにはその方法しかなかった。

オペラを作りたい夢も叶う筈もないと思っていたが、ソプラノと笙のモノオペラを完成させた。これも立派なオペラだと思っている。

3年前にロシアの室内楽フェスティヴァルから招聘を受け、弦楽オーケストラと笙のための作品があったら演奏したいと問い合わせがあった。いろいろ調べてみたが良いものが見つからず、誰か作曲家に書いてもらっても良いかなと思い始めた頃、

そうだ、私は作曲家だ

と自分で書く事を思いついた。すっかり忘れかけていたオーケストラを書くという夢を思い出した瞬間であった。

半年以上時間はあったが、とても苦しい作業で大幅に予定が遅れてしまい、最後に送った3楽章は演奏してもらえなかった。

3楽章を含めた全曲を必ずどこかで演奏する。そんな執念がかなった今年の2〜3月の中南米ツアーであった。

私の音楽を演奏できる場所なら何処へでも行く。

パラグアイでのリハーサルから演奏会にかけてはとても充実した時間であった。私が聞きたかった音が聞けた。

そして、終演後、とても感動したと声を掛けてくれた白髪の紳士がいた。日本に帰って程なくして連絡をもらった。

2〜11楽章は先に完成させ、残るは1楽章。
昨日も朝4時に起き、6時に仕事に出かけたが、早めに着いて駐車場で1時間ほど。何か終わりまで書けるような気になって。最後の音楽までたどり着いた。そして急いで家に帰り書いた。

もうあと少し確認とかき入れる部分が残っているが。

一応10月5日完成!

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