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2008/02/27
もうかなりの回数聴いています。
同時に注文した同日に収録した7番も聴いています。
両方の話はともかくとして
両方の話はともかくとして
まずは4番。
このHMVに書いてあったレビュー。
まぁ、思ったことを書くのがレビューなんだけど。
まぁ、思ったことを書くのがレビューなんだけど。
とにかくこの演奏は素晴らしいです。
その後のコンセルトヘボウとの映像や
日本での公演のルーツがここに見いだせる
80年代のクライバーの原点とも言える演奏であろう。
その後のコンセルトヘボウとの映像や
日本での公演のルーツがここに見いだせる
80年代のクライバーの原点とも言える演奏であろう。
・・・とその他諸々はまた書くとして・・・(2回目;)
そこに載っていたレビューには
(あまり繰り返し読む気はないので記憶で書くが)
これは正しいベートヴェンではなくクライバー流とか
本来の4番を壊しているとか
激しいのが好きなら3番や7番を聴けばいいとか
(あまり繰り返し読む気はないので記憶で書くが)
これは正しいベートヴェンではなくクライバー流とか
本来の4番を壊しているとか
激しいのが好きなら3番や7番を聴けばいいとか
しかし、「本来」とか「正しい」とか
これが正当な演奏だ
という「正当」はどこから来ているのだろうか?
これが正当な演奏だ
という「正当」はどこから来ているのだろうか?
おそらくそれはそう思った人の好みや
それまで聴いた「普通」の範疇でしかないのだろうか?
それまで聴いた「普通」の範疇でしかないのだろうか?
そもそも100人が演奏すれば
100通りの演奏があるはずである。
例えそこにベートーヴェンが出てきて
「おまえの演奏は好きでない」と言っても
「おまえの演奏は違う」と言うことは
言えないはずである。
100通りの演奏があるはずである。
例えそこにベートーヴェンが出てきて
「おまえの演奏は好きでない」と言っても
「おまえの演奏は違う」と言うことは
言えないはずである。
高校生の頃、音大受験を控えた学生達が
この曲はこう弾かなければいけないとか
こう弾いてはいけないとか・・・
そんなのを耳にしたような気がする。
この曲はこう弾かなければいけないとか
こう弾いてはいけないとか・・・
そんなのを耳にしたような気がする。
演奏するということは
上手いとか下手とか
関係なく表現することこそ
一番大切なことだと思う。
上手いとか下手とか
関係なく表現することこそ
一番大切なことだと思う。
もしベートーヴェンが
「おまえの演奏は違う」
と言ったとしたら
それは、ただ単にベートーヴェンの
好みに合わなかった可能性が高いように思う。
「おまえの演奏は違う」
と言ったとしたら
それは、ただ単にベートーヴェンの
好みに合わなかった可能性が高いように思う。
ドラマティック・ソプラノが
コロラトゥーラ・ソプラノに対して
「あなたの声は軽くて使い物にならない」
と言っているようなものである。
コロラトゥーラ・ソプラノに対して
「あなたの声は軽くて使い物にならない」
と言っているようなものである。
むしろ責められるべきは
なんの意志もない
音符を正確に弾き
それで満足しているような
人たちである。
なんの意志もない
音符を正確に弾き
それで満足しているような
人たちである。
クライバーの演奏は
ベートーヴェンの想定していたものを
そしていままでベートーヴェンを沢山聴いていた
人たちの想定を
越えてしまっただけである。
ベートーヴェンの想定していたものを
そしていままでベートーヴェンを沢山聴いていた
人たちの想定を
越えてしまっただけである。
(いちおう)作曲家である私は思う。
楽譜は音になれば作品になる訳ではない。
そこに演奏家の息吹があって初めて
作品としての生命を持つ。
楽譜は音になれば作品になる訳ではない。
そこに演奏家の息吹があって初めて
作品としての生命を持つ。
自分が想像もしなかった
生命を植え付けてくれるような
演奏にどれだけ出会えるのだろうか?
生命を植え付けてくれるような
演奏にどれだけ出会えるのだろうか?
少しでも多く出会えれば幸せである。