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2025/02/16

「型がない人に型を破ることができない」

というようなことを誰かが言ったようだが

「型にはまってしまうとそこから抜け出せない」

というのも事実である

授賞式では下記のような図を用いながら
我々の活動を紹介した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伝統と前衛というのは全くもって相対するものである

伝統というのは過去を守ることであり
前衛とは未来を作ること

下記は2023年に豊洲のNMGEのコンサートのために書いた文章である。

伝統と創造の狭間で
「誰かに習ってしまったら、その人のやり方になってしまう。より良いものを創り出すこと、独自性を出すには自分で考えて研究し開発しないといけない」。正確な言葉は思い出せないのですが、ある西洋楽器の楽器製作者の言葉です。私の笙の作者達も独学という事を聞いた事があります。彼らの言葉は私のそれまでの概念とは全く逆であり衝撃でした。「型破りは型ができた人のみできる」「型を破るには先ず強硬な型がなければそれを破ったことにはならない」。作曲の師からも数百年の先人の知恵があるのだからそれを踏まえて自分の世界を創れば良いと散々言われてきました。しかしながら「型にはまる」とそこから抜け出せなくなってしまうと言うのもひとつの考え方かも知れない。
しかしこれは「個」を主とする考え方でもある。雅楽のような伝統的な音楽はとことん個を排除し、口伝で師から技術や音楽を教わる。そこに個は必要ない。むしろその究極に個を排除した中から生れ出た個性こそ名人芸であり伝統の重んじるところなのであろう。
雅楽を演奏し現代音楽も演奏するという事は、この全く相反する二つの事象を同時に行う事でもある。
常に我々雅楽演奏家に突きつけられる難しい課題でもある。
そのひとつの答えが今日のこの演奏会なのです。

私には「雅楽の演奏家」と「作曲家」また「現代音楽の演奏家」
といった全く異なる3っつの人格があるわけだが
「雅楽を演奏する」時は伝統を重んじ
「作曲」する時は自分の中から徹底的に雅楽を排除する

新しいものを創り上げるためには
徹底的に「型を破り」破壊し尽くさないと
真に新しいものにはならないと考えていた。
それはつまり
「型にはまる」とそこから抜け出せなくなる
事であり
「誰かに習ってしまったら、その人のやり方になってしまう。より良いものを創り出すこと、独自性を出すには自分で考えて研究し開発しないといけない」
ということにも繋がるのだろう

上の表に「伝統と前衛の一元化」
と書いたがそのまったく別方向で逆方向の活動が
実は表裏一体の活動として認識できたのが2023年の豊洲の演奏会であった

そういえば終わった後の宴会で
「creator」と「engineer」の話もしていた・・・

 

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