2019/08/16

「1人の死は悲劇だが
100万人の死は統計上の数字でしかない」

と誰かが言った。(アドルフ・アイヒマンらしい)

戦争での死を数で見れば、何万、何百万人という数字となり
統計としか残らない。

しかしそれを一人一人の死として向き合う作業をドイツでは行なっている。

かつて住んでいた住居前に
強制収容に連れ出された日
収容先
亡くなった場所・年月日
を記録しひとつずつ道に埋め込まれている。

一人一人の死を風化させない作業である。

戦争犯罪という言葉があるが、戦争自体が犯罪である。

私たちの先祖が犯した罪は私たちの罪ではない。

私の直接の先祖が犯罪者であったからと言って私は犯罪者ではない。

しかし、ひとつひとつの事実を正確に見つめる事こそ、人類が犯して来た罪への贖罪の一歩である。

 

ある戦史の本に
「敵は数百の死者を出したが、我々はたったの80名の死者で済んだ」
と書いてあったが、「たったの80名」
その中のひとりひとりの数十年人生があるあるのに
たったと表現されているのは、戦争とはひとりひとりの人生は顧みずに、数の戦いで、1人の人生も国の歯車の一つにされてるという事の証明である。

アウシュヴィッツは1年ドイツに住み、ドイツがあらゆる方向で先の大戦を反省し、2度同じ過ちを繰り返さない為の様々な取り組みを目の当たりにしてきた私にとって、どうしても訪れなければいけない場所であった。

ポーランドの外れにあると思っていたアウシュヴィッツは思っていたより行きづらい場所ではない。

Krakauまではヨーロッパ各地から飛行機が飛んでいるし、クラクフの街はとても美しく、同時に訪れるに充分な価値がある。

アウシュヴィッツだけを訪れるためにヨーロッパを訪問しようと思ってた私にとっては得をした気分であり、アウシュヴィッツだけ行くのはちょっとと思っている人にとってはクラクフの街がある事によって観光としての価値が充分あると思う。
(そんな観光という軽い感じで訪れる事のできる場所ではないのだが)

Arbeit macht frei.
この有名な入口。

働けば自由が得られる

そんな訳が無いからこそ

この言葉の重みを感じる。

アウシュヴィッツの中の建物は整然と立ち並び美しい。

ここでどのような悲劇が毎日繰り広げられていたかは想像できない。

ヨーロッパ全土から集められた収容者達。

この小さな貨車に数十〜百人近い人が押し込められ

十数時間もの間、窓もないすし詰め状態で移送されて来たという。

その途中で多くの人が命を落としたという。

真っ暗な中で、すし詰め状態で、周りの人達が命を落として行く中

同じ空間にいる人たちは何を思っていたのだろう?

家族を亡くした人もいるだろう。

命を落としても暗い貨車の中でどうするすべもなく

どこまで行き、あと何時間その空間にいなければならないのかも

知り得ることさえできなかった。

そしてたどり着いたビルケナウ収容所。

ここは広大でただただ美しかった。

やっと生きながらえて死体と共生しながら

光を見た人達は何を思ったのだろう?

しかしそこに待ち受けていたのは命の選別だけである。

労働力とならない者はガス室へ送られ
労働力は強制労働という形で搾取されていったのである。

そして必要のない者は容赦なく排除されていく

このひとりひとりの靴たちにどれだけの人生があったのだろうか?

それぞれが大切にしてきた食器もゴミ屑同然に扱われる。

人間自体がこのようにゴミ屑同様に扱われてきたのだ。

行きていく為の杖や義足

これらを手に入れ、不自由な中に自由を見つけた人達の人格は
どこに葬り去られたのだろう?

といれには便座も仕切りもない。

そして時間も決められていたという。

この狭い中に何人が押し込められていたのだろう?

人権

などというものはない

生産性のないものは生きる価値がない

Arbeit macht frei

働けなければ生きることはできない

 

これが人類のおかしてきた罪である。

 

戦争という大義のために殺人を正当化し

人権を踏みにじる行為

 

「人間の最大の武器は忘れることである」
(と誰かが言った)

忘れる事ができなかったら
人は苦しみ過ぎて生きていけないだろう。

「歴史から学ぶ事は
人は歴史から何も学ばない」
(とまた誰かが言った)

そう、だから歴史は繰り返す。

 

だからこうして忘れないように祈るだけである。

 

同じように長崎や南京もいずれ訪れたいと思っている。

広島はすでに訪れた。

 

広島原爆の日、8月6日

長崎原爆の日、8月9日

終戦の日、8月15日

私たち日本人にとって忘れてはならない日がある。

 

そして、今日8月16日はパラグアイのアコスタニュの戦いから150年の日である。
74年と1日前の事を忘れるような人たちが
150年前の事など想像できるだろうか??

数千人の子供たちが戦争に参加し犠牲になったアコスタニュの戦い。

いま私はそれについて調べている。

「天上天下唯我独尊」

と言った御釈迦様は
人ひとりの命の尊さをこの言葉で説いている。

「1人の命は地球より重たい」

と言ったのは誰だろう?

 

人権が虫けらのごとく扱われるのが戦争であり奴隷である。

常に権力者や政治も犠牲になっている。

 

その事実は直視する事が必要だと思う。

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