2007/07/07

日本の音楽や文化は
吟醸酒のようなもの。

不要なものを削ぎ落とし
一番中心の輝くものだけを引き出す。

しかし、削ぎ落とすためには
それだけのものがないと何も残らない。

(過去の日記より)

つづき・・・

押さえるという行為
本来演奏家はめいいっぱい
表現したいのである。
しかし、
その熱い想いを押さえないといけない時もある。
しかし、
その押さえることが日常化し自分を出せなくなってしまったら・・・

私はコンクール向きの人間ではないと思う。
練習をそのまま本番に出すことなど不可能なことだと思う。
もし練習のままを本番に出来る人がいたとしたら
それはとても不幸な演奏なのだろう。
しかし、むしろそのような演奏こそ
コンクールに合っているといえるのかも知れない。

私は優等生の演奏には興味がない。
安全を犯してまでも押さえきれない何かを持っている演奏家。
そんなものに憧れる。

しかし、
世の中には表現することすら
知らない人があまりに多い気がする。

そんな人には押さえるという
行為自体存在しないのだろう。

そう言う人にとってはきっと「押さえる」
という言葉の定義自体が全く異質なものなのかも知れない。

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