2009/02/04

そもそも私は
ピアノが好きではなかった。

実際、今まで、
ピアノのリサイタルというものには
一度も行った事がないし

高校生の頃
自分が弾く曲を
研究するために
ホロビッツのCDを
一枚買った以外は
ピアノのソロは
一枚も持っていなかった。

オーケストラが好きな私は
ピアノ協奏曲は聴いても
ソロはなかなか聴かなかったのである。

周りにはピアノの音があふれているし
ピアニストになる訳でもないので
(なれる訳もない)
自分で弾く曲をわざわざ誰かの演奏で
聴いてみて勉強する来もなかった。

だいたい
私がピアノを弾いていても
聞こえてくる音は
オーケストラの音であり
ピアノを使って
オーケストラの音を
表現したかったのだ。

私がピアノを始めたのは
中学3年生の10月末。

神奈川県立弥栄東高校音楽コースを
受験する事を決めた時、
ピアノぐらい弾けた方がいいとの事で
始めた。

中学生の思春期の恥ずかしい時期
バイエルやら子供のための絵の書いた
でっかい五線の楽譜を弾く事は苦痛でしかなかった。

高校に入った私は
作曲の基礎である和声の先生を紹介して貰い
その先生の元で勉強を始める。
あまりに聴音も視唱もできないので
一緒に習う事になる。
そして、・・・
ピアノもあまりに弾けないので
習う事になる。。。

高校に入ると
音楽コースの生徒は
年に二回、校内演奏会で
演奏しなければならない。

一年生の時は
オーボエを吹いたり
自分の曲を演奏したり
していた。

そして、
私にとって
「初舞台」
と意識の中に残っているのは
高校2年生の時の夏:7月の
校内演奏会と
ルーテル市ヶ谷での
発表会である。

管楽器は得意であったが
右手と左手が別の事やる
ピアノなんて絶対無理!
と思っていた私・・・。
人前で絶対ピアノなんか弾くか!!
と心に決めていた!?のだが
先生から
「でた方がいい」
「でるべきだ」
「でなさい」
・・・
と見事に撃沈!?

ソナチネとか
子供の弾くような曲は絶対にヤダと
決めていた私は
自分で探すしかない。

「月光」

ベートーヴェン作曲
ピアノ・ソナタ第14番

1楽章と2楽章
当時の私にとって2楽章は
超絶技巧であった・・・。

もの凄い時間練習した。

その頃からすでに私には
自分の解釈と
自分の表現があった。

「ピアノの常識」

「ベートーヴェンの常識」
と称する
ピアノの先生からすると
とんでもない弾き方
をしていた訳だが、
私は先生の言う事を聞かず
直されても直さず・・・
自分の意見と演奏で
説得を試みた。

幸い私の先生は作曲が専門であったし
ピアノで受験する訳でもないので
この辺りは寛容であった。

その頃からだろうか?
何もできない落ちこぼれな私を
一人の音楽家として信頼して
教えてくれるようになったのは。

私は誰も弾いた事のないような
ゆっくりしたテンポで「月光」を
弾いた。

一人で舞台に上がり
誰も助けてくれない中で
最後まで弾き通さなければいけない。

これが私の初めての
舞台での体験である。

そして、
ピアノの弾けない
私が次に進む曲こそ・・・

ショパン!!

ピアノソナタ第2番

!!!

第3楽章

!!!?

そう!
あの有名な
「葬送行進曲」
である。

これは確かその年の秋頃の
勉強会のようなもので弾いたと思う。

そして、
これに続く曲と言えば・・・

ショパン
「ノクターン」

2番

そして
前奏曲集から
「雨だれ」

2年生の校外演奏会では
初めての本格的作品である
ピアノのための交響的幻想曲「冬の樹」
を自作自演する。

今見るとちょっと恥ずかしい曲でもあるが・・・
普段2段で書かれているピアノの譜面が
場所によっては5段になっていたりする
超絶技巧の作品である。(当時の自分として・・・)

そして、同じ頃には
ドボルザークの「スラヴ舞曲」
を連弾で弾いたり。

そして、そうなると
ピアノでオーケストラを
どうしても鳴らしたくなるのである。

そう!

ムソルグスキー
「展覧会の絵」

高校3年生の7月の校内演奏会
プロムナードをいくつかと
「ブイドロ」「キエフの大きな門」
を弾いた。

このころどれだけの練習を
していたかは覚えていないが
4時間目の授業が終わると
音楽室へ駆け込み
昼を食べず、
家に帰ると音を出していい9時頃まで
ずっと弾き続けていた。

腕が折れるか
ピアノの弦が切れるか

私の腕は無事で
展覧会の絵の
最後のコーダの部分に入った時

ガーン
ドッカーン
バーーン
っと
もの凄い大音響をあげて
低いesの弦は切れた。

それはこの曲の中でも
最も低い音であり
しかも
左手の小指で弾いている音であった。

私はその瞬間
勝利を確信した

・・・

????

そして、何故だか
ピアノが一番うまい
とどっからか
風の便りに乗って
聞こえてくるようになっていた。

この頃にはもう
ピアニスト気取りである!??

下級生の歌の伴奏を引き受け
同級生の伴奏もし
合唱の伴奏まで・・・。

そして、
私の僅か2年の
ピアニスト人生の最後を
飾ったのが
ワーグナー作曲
リスト編曲
「トリスタンとイゾルデ」から
「愛の死」

コチシュの編曲した
前奏曲も弾きましたが。

「愛の死」は
半端でなく難しかったです。

体力もいるし
どんなに頑張って弾いても
オーケストラのように盛り上がらないし

当たり前か・・・。。。

でも私の大好きな
「トリスタンとイゾルデ」

これを弾けるのは
スゴイ嬉しかったですねぇ。

高校3年の
卒業式も終わった
3月の発表会で
弾きました。


 ん
  ば
   ん
    は
     さ
      ん
   
    ざ
        ん
         だ
        っ
       た
      け
     ど
    。
   。
  。
という訳で
私の華々しくも
短い
ピアノ人生は
幕を閉じたのでした・・・。

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