2009/08/10

46枚組の
「ブラームス・コンプリート・エディション」
に入っているアバド指揮ベルリンフィルによる
「ハンガリー舞曲」を聴きながら思った。

ハンガリー舞曲
スラブ舞曲集
ラプソディ
ペルシャの市場にて
ケチャ
また近衛秀麿編曲の
オーケストラの為の「越天楽」なる曲もある

どれも優れた作品たちであるが
元の曲はどういうものだったのか
想像する。

民謡
土俗
民族

もちろんこれらの作品は
それらを素材として用いているだけであって
それぞれの作曲家の作品であって
原曲をそれらしく再現しようという物では
ない

洗練とは芸術性を高めると共に
魂を薄めている気がする。

西洋音楽の価値観では計り知れないもの

そんなモノはいろいろな伝統音楽や
民族音楽の中に息づいているはずである。

武満徹が邦楽器や雅楽に見出したものはきっと
洗練されてしまったものではなく
そんなものだったはずである。

だからこそ「ノヴェンバー・ステップス」のような
作品が生まれたのであろう。

西洋音楽の価値観に乗っ取った
人たちには
絶対に表現できないもののはずである。

その魂を知るもののなし得る
特権のようなモノだと思う。
技術だけではない何か。

しかし、そうでない演奏が流行り
売れている今を見ると、
やはり「秋庭花」などという曲も
同じ運命をたどる事になるのだろうか?

西洋の合理主義による洗練は
進化であり発展である。
しかしそれは進化での一形態であるにすぎない。

雅楽が千数百年の歴史の中で、
数多かった楽器や、
多くの楽曲が失われ
今では楽譜さえ失われ
曲名のみしか残っていない曲は数多くある。

しかし、それを「失われた」ものと取るか
「淘汰され」ものと取るかによって
ものの見え方はまったく変わってくる。

笙の十七管あるうちの二管が
音が鳴らなくなったのも
退化と捉える事もできる。

しかし、日本のその他の伝統芸能に於いても
ほとんど全て創作活動の盛んな時期を経て、
保存・伝承という道を歩んでいる。
新たな創作がなされない以上、
必ず滅びていく曲は増えて
全体の曲数は減っていく。

私はこれを衰退と解釈しない。

日本人の進化の仕方は、
何かをプラスして大きくしていくようなものではなくて
今あるものを磨いて磨いて、
それを極めていくようなものだと思う。

下手な鉄砲、数打ちゃ当たる

って言うが、

それとはまったく逆の
一発だけに魂をかけるやり方である。

少数精鋭

進化しない進化

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