2019/08/30

「作曲家の演奏」

「演奏家の作曲」

 

以前リサイタルのプログラムに

「演奏家タイプの作曲家」

「作曲家タイプの作曲家」
について書いた事がある。

夏にベルリンでL氏と話しをした。

「私の身体の99パーセントは作曲家でできている。
しかし、99パーセントの仕事は演奏家としてだ」

彼はこう言った

明日からは作曲家になる。

 

そう、私は99パーセントどころか
100パーセント作曲家だと思っている。

だから演奏家の作曲については全くわからないし何も言える立場ではない。

 

自分より大切なもの

そんなものはないと思う

もしあるのだとしたらそれは偽善だ

 

愛する恋人の乗る車の向こうから
トラックが突っ込んできた時に
ハンドルは自分が助かる方に切る

向こうからはものを持った人が襲いかかってきた時に
子供をかばって盾になっていても
自分が死ぬとは思っていない

 

子供は自分の分身に近いのかも知れないが

他人だ

親や家族なども

自分より大切な他人はあり得ない。

 

楽器は大切だ

でも自分がいなかったらその楽器は奏でられない。

 

そう考える時

自分よりも大切なものなどあり得ない。

 

しかし自分の作品は

自分が死んだあとにも生き続ける

自分の楽譜は自分が死んだあとも

自分の音楽を語り続ける

子供は他人だけど

自分の曲は完全な自分の分身だ

子供を育てるのとは全く違う

これを汚す奴は許さない

 

私は曲を書いていると

ひたすら体重が落ちていく。

気をつけないとふらふらになっている。

楽譜を書いている時は楽しい作業だが

産み出している時は

汗だくになっている。

 

多分身を削って音符を産み出しているのだろう。

 

そんな風に楽譜を書いていても

演奏する人はそんな事は知らない。

 

少なくとも私には音楽的な確信が必ずある。

しかし、演奏家はそんな想いも知らず音を出す。

 

何度も殺意を感じながら
自分の書いた楽譜が悪いのか
演奏家の問題なのか
自問してきた。

私の頭の中に鳴り響く音楽を
血のにじむ思いで書いた楽譜を
無下に音だけ鳴らす人間を許せなかった。

だから

自分で指揮し

自分で歌い

演奏してきた。

 

しかし私は演奏家ではない

本当の演奏家は

自分よりもっと上手く演奏できるはずである。

 

作曲家は悲しい。

自分で演奏できないから。

 

だから私は自分で演奏し

自分の創った音楽の

証明をしてきた。

 

私の楽譜を踏みにじるような奴は許さない。

 

もう演奏家稼業は終わりにしたい。

すばらしい演奏家と

良い音楽を作って行きたい。

 

そんな事を夢見て

楽譜を書いている。

 

(ブログ書いてないで曲を書け)

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