Category:
2011/05/27

日本にいる間、

感慨にふける間もなかったので、

というか1年も前から

ほぼ決まっていたのに

行けるか行けないかわからないような状態が

ずっと続いていたので。。。

来年の夏はドイツだなぁとか

来年のこの演奏会には出れないんだなぁとか

来年の正月は日本にはいないんだなぁ

とか

行く前に感慨にふけりたかったのだけど。

そして、行く直前も

いよいよあと何ヶ月とか

この仕事はこれでしばらく終わりとか

 

なんにもないままに旅立ってしまった。

だって正式決定が4月下旬で

正式発表が出発前日の5月13日なんだもん。

 

そんな訳で

勝手にここで一人黄昏れます。

 

そもそも私が音楽を始めるきっかけとなったのは

オーケストラの音楽を聴き始めてから。

なんの音楽教育も受けていませんでした。

西洋音楽の素晴らしさに魅了されたとともに

何故日本人には西洋音楽ができない、

と言うような事が言われていたのかが

不満でたまりませんでした。

「本場」

なんて言葉が日本人は大好きですが。

ドイツ語が喋れないとベートーヴェンは理解できない

なんてどこかのピアノの先生がよく使うフレーズです。

私は日本人なんだから

日本人として堂々と表現すればいいじゃないかと

常に思い続けていました。

中国人のピアニスト(だれだっけ?ユンディリ?)が

ショパンコンクールに優勝した時、

その師は

「中国人としての表現を世界が認めた」

と言った。

しかしもし日本人だったら、

「日本人もショパンを演奏出来る事を証明した」

と言う表現をしたでしょう。

そこには

「日本人としての」

というものが無く

常に

「本場の人でない人がやっている」

という

変な劣等感をおわされているのである。

 

私は常にこれに対して不満である。

 

よく

「欧米は」

という言葉を耳にするが

これは欧米はこんなにすすんでいるのに

日本はこんなだ。

という意味で使われる。

(だいたい「欧」と「米」を一緒にするなと思うが。)

何故欧米がそうだからと言って、

「これが日本なんだ」

と言えないのか?

どっかのどうしょうもない都知事が

自動販売機に対して

「欧米にこんな自動販売機が町中にある国はない」

って言っていたが、

日本はそんなにも

進歩していて

安全で便利な国なのである。

 

何故日本人はこれほどまでに

すばらしい文化や風習を持っていたのに

それを時代遅れなものとして西洋化しなければならないのか?

 

洋服での生活というのも不満ではあった。

 

日本の音楽を勉強しないで西洋の音楽ばかりを勉強するのも

何が納得いかなかった。

 

中学時代から日本の古い建物や絵画に興味を持った。

 

音楽家としての道を歩み始めた時から

日本の伝統音楽に興味を持ち始めた。

 

何故日本人なのに自国の伝統音楽を聴いた事もないのだろうか?

レコードを買おうにもなかなか見つからない。

(二十年前くらいは)

やっと見つけた雅楽CDは宮内庁の越殿楽三調というCDであった。

しかし、雅楽について調べようにも

雅楽に関する本が全くない。

 

やっとの事で見つけたのは増本伎供子さんの「雅楽」という本だけだった。

他はみな絶版。

 

今は雅楽のCDも本もいっぱいありますけどね。

20年ほど前はそのような状況でした。

 

私は元々雅楽の演奏家になるつもりはなかった。

作曲家として日本人として曲を書くためには

日本の音楽を勉強しなければいけないと思った。

それもちょっとかじって知っているくらいではなく

演奏家になるくらいにちゃんと勉強して、

そうした時に初めて日本人としての曲が書けるのではないかと考えた。

 

そう思ってから実際に雅楽を始められるまでは

5年以上はかかったのではないだろうか?

インターネットのない時代である。

 

そうしてやっと見つけて雅楽を始められるようになったのが

21才の時。

大学の4年になって卒業後どうしようかと、大学院に進むかとか

考えていた頃だった。

ちょうど教育実習に行っている時だったので、生徒に見せたり。

全然吹けなかったから音鳴らしたくらいだけど。

 

念願叶って習いに行ったのは良いんだけど、

ちっとも解らなくって・・・。

全くピアノとかのレッスンとは違って、

集団で一方的に先生が言っているだけで

こちらがどうだからどうしたらいいって言うのが

ちっとも解らない。

 

誰かに聞いてもよくわからない回答が返ってきたりして・・・

最初の数ヶ月はまったくもって理解できない世界だった。

 

そんな頃、夏の集中練習のようなもので合奏したり、

ちょっとだけ個人的に見てもらう時間をもらったりして

でも、合奏は私にとって全くもって未知の世界でした。

 

もっとしっかり勉強したいと思っていた頃に

ちょうど東京芸大に雅楽ができるという話を聞きました。

 

どうせやるなら最初の目的を達するにも

あらためて芸大に入るかなぁと。

まぁ入試の課題によくわからないのがあるけど

とりあえずまだまともに吹けないけど

試験を受けてみるのも良いかなぁと。

そんなんで受けたら受かってしまったのでした。

 

受かるつもりはあんまり無かったので

(けっこう必死に練習と勉強しましたが)

受かった以上芸大生としてちゃんとやらないとと焦ったもんでした。

 

そして、芸大に通うのと同時に雅楽会にも通い。

5時に授業が終わると6時からの雅楽会の練習にほぼ毎日通っていました。

月曜は笙。火曜は琵琶、水曜は楽箏、木曜は右舞、その他に月3回の合奏。

 

必死でした。

 

雅楽の世界は

宮内庁式部職楽部が

国の無形文化財に指定されているけれど

それ以外は素人一緒のような世界ですから。

でも負けたくはなかった。

作曲の事もクラシック音楽の事も全て忘れて

ただ雅楽の稽古にだけ励みました。

雅楽をやるためにはどうしても

西洋音楽的な価値観を捨てないと

できないと考えました。

 

某海外へよく行く団体の誘いも断り

小野雅楽会で演奏しながら、

もしかしたら十二音会にも入れないかと

 

もしその団体に加入していたらもう少し簡単に海外に出れ、

いろいろな作曲家に

もう少し簡単に会え活動の範囲も広がっていたでしょう。

しかし、私の求める「雅楽」はそこにはありませんでした。

むしろ、日本の文化を知らない外人が楽譜だけ演奏しているようにしか

私の耳には聞こえませんでした。

活動の場を求めるか自分の信じる道を進むか。

答えは非常に簡単でした。

 

途中で何度芸大をやめようと思ったか数え知れません。

もはやそこで勉強するものがないのですから。

 

母親にぼそっと

「芸大やめるかも~」

ってつぶやくと

私のすることに一度も反対しなかった母親は

ものすごい勢いでどうしてもやめるなと迫ってきた。

 

そんな訳で我慢して芸大は続けた。

 

卒業する際に私は

担当講師と芝先生に喧嘩を売った

それで、私は現代音楽関係の仕事は

一切その方面から入らなくなった。

 

若気の至り

という言葉があるが

言いたい事を言わないで我慢するのが

大人ならば

私は永遠に大人になれないだろう。

大人になれと

よく言われたものだが

自分の意見をしっかり言える人こそ

大人だと思う

それを言わないで世の中を上手く渡り歩く事は私にはできない。

ただ、相手を選ぶべきだという事は

充分学んだ。

だから私はだいぶ大人にはなった。

言う価値のない人に喧嘩を売るほど

無駄な事はないのだから。

 

 

 

 

 

雅楽の現代音楽を独占している団体だから

と言ってもその人たち以外やる人がいなかったからだけれど。

何故そこまで評価されて

海外での演奏が多いのかは私は理解できない。

雅楽が演奏出来ないのに五線が読めるだけで海外での演奏が出来る

この団体は私がつぶすと決めた。

と言うか流行はいずれ荒んでいくであろう。

必ず私の時代が来ると

信じる

 

卒業する時に

国立劇場作曲コンクールの応募の広告を見つけた。

4年間全く作曲や西洋音楽から遠ざかっていたが、

その時ハッと思い出した。

ついに曲を書く時が来たんだと。

でも、1月末締切でそれを見たのは確か1月初め。

間に合うはずは無いと思いながら必死で書き始めた。

 

この曲は私以外誰も演奏出来るはずはない。(今のところ)

 

そして電話が掛かってきました。

「この曲は誰か演奏してもらいたい人はいますか?」

「いえ、自分で演奏しようと思って・・・」

「では、予選通過という事で」

(ラッキー)

 

そして1位の80万円をもらいました。

でも、コンクールに優勝したからって明るい未来が待っている訳ではないんです。

 

何もしなければ賞状もお金もただの紙切れと生活に消えていくだけで、

何かしようと演奏会を開催すると瞬く間にそんな賞金は無くなってしまうのです。

 

大金をつぎ込んで

リサイタルを行い、CDを作って、新聞にも載り、演奏会評も良い事書いてもらい、

CDの評も載り・・・これからスタートを切って、いろんな事をするぞ、

と思っても、待てど暮らせど、なんにも仕事は来ない。

来ないから自分で企画して開催する

赤字が増える。

お客さんも増えていかない。

アンケートに凄く良い事書いてくれても

次の演奏会にチケット買って来てくれる可能性は・・・

たぶん1%以下。

常に知り合いが多くを占めている。

 

1枚の切符を売るのがどんなに大変な事か。

 

どうやっても広がっていかない。

 

いろんな作曲家に曲を書いてもらいたいのに

頼んだ一曲を書いてもらってそれで次につながる訳でもなく

他の作曲家が書きたくなって演奏を依頼してくる事もなく

常に私が頼んで多額の委嘱料を払い、演奏家を雇い、ホールを借り

チラシを作り、音楽会社にプロデュース料を払い・・・宣伝料も払い、

チケットを売るために500通以上のダイレクトメールを出し、自分でチケットを売り

やっと演奏会にこぎ着け成功に終わっても大赤字。新聞で一年間の演奏会のベスト5に選ばれても、

特に知られる事もなく。。。

 

そんな愚痴ばかり書いていますが、

10年掛かって、笙の演奏技術は確実に進歩していく。

作曲家も今まで出来なかったような事を普通に書いてくるようになってきた。

そして、自分自身の演奏技術も以前とは比べられないほど向上してきた。

ゆっくりながら確実に自分が進歩していくのがわかる。

 

あと、何が足りないかと言えば

知ってもらうと言う事だけ。

 

その事が非常に難しい日本でやるよりも

むしろ海外に出た方が可能性は大きい。

 

 

上手く周りの人と付き合っていれば

もっと簡単に世界を拡げていく事ができたのかも知れないが

それがどうしても信念に反する事が多く自分で一から切り開いていく道を選んだ。

だからこそ、愚痴を言う事は許されないはずだが、まぁ酔っぱらった事にして

いつも吐き出している。

 

しかし、一度も信念に背くことなく歩んできた道はあまりに長く

厳しかったけれども今ここにドイツへの切符を与えてもらった事により

むしろ近道だったと思える。

多くの人たちの尽力により与えられたものであり

多くの力によって支えられながらやってこられた。

(ここまでは模範的回答)

しかし、別の見方をすれば自分で進んでいったからこそ

つかみ取れた事も事実である。

 

 

決して比べられるものでは無いのだが

私は日本人が一番優れていると思っている。

 

たいていの音楽家は

ヨーロッパに本場の音楽を勉強しに行くが

私はヨーロッパに「本場日本」の優れた音楽を紹介する為に行くのである。

 

どこかのテレビドラマで

「海外で自分の力を試せる時がやってきた」

なんてどこかのちあきが行っていたが、

私はこの優れた文化を知らしめるためにやってきたのである。

 

こんな愉快な事はない。

信念に背くことなく

自分の道を進んでいれば

必ず道は拓けてくるものだ

ただ道は拓けても

そこをどう歩いていくか

これからが私の

勝負の時だ

楽しくて仕方がない

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください