真鍋尚之 モノオペラ「廻」
演劇との作品は私自身、これで三作目となる。
これまで「歌のないオペラ」というものを提唱してきた。
日本語。歌。役者。オペラ。演劇。合唱。
実験とは確信を証明する手段である。
(真鍋尚之)
Sop,Sho,15 Schauspieler
私;吉川真澄(ソプラノ) Masumi Yoshikawa(Sop.)
act orch(ムーヴメント・パフォーマンス) act orch(Movement.Performance )
ヴィシュヌ;佐々木麻美
ブラフマー;尾崎健太郎
シヴァ;夏見隆太
業(カルマ)
1;川崎美波 曽我明希 渡邊ひかる 関根里佳子
2;石井千里 杉田里美 すはらゆうこ 青木恵 菊地祥子
3;内田直斗 村上聡志 西澤大 波野平遼
真鍋尚之(笙) Naoyuki Manabe (Sho.)
渡辺裕之(劇作・演出)
抜粋1
2010.10.24 Naoyuki Manabe Sho recital Vol.6
真鍋尚之笙リサイタル Vol.6 協演。東京オペラシティ リサイタルホール。MonoOper-Kai 1
○あらすじ
〜神は世界を咀嚼する〜
私は樹の幹の前に立ち、瞑想する。瞼を閉じることで日常から隔離され、ただ独りとなる。瞳に映る闇の中、そこには創造(ラジャス)の神ブラフマー、維持(サットヴァ)の神ヴィシュヌ、終局(タマス)の神シヴァが弧を描き静かに佇む。
神は私に祝福を与える。万華鏡を回転させるが如く世界の有り様、過去、現在、未来を色鮮やかに変容させていく。再構築されていく世界の中、業(カルマ)が私に語り掛ける。行為の象徴であり邪の存在である業の声は私の耳には届かない。しかしその声は呪詛の如き旋律となり、私の根幹を揺さぶる。
闇の中、神と業と世界と己と対話することで、私は幾多の発見をし、それらと向き合うこととなる。時空間を飛び越える瞑想の終着点において、私はある決定的で、致命的で、完全な唯一の事実を知る。
神は世界を咀嚼する。噛み砕かれ、粉々になる世界。私の首をめがけ、樹から紐が垂れ落ちる。瞑想をし、静かに私は世界と繋がる。
(渡辺裕之)
抜粋2
○解説
この物語では神が出現します。ヒンズー教の三神一体の神です。そして主人公のわたしは瞑想し、神と対峙します。
神を考えます。
困惑した時、辛い時、道に悩んだ時、我々はその思いを神に託し、その加護を切望します。「困った時の神頼み」です。信仰を持つ人間であれば神はその姿を現します。無宗教者の場合、そこには特定されない、シンボライズされた、ある「神」が存在します。神の支配から離れ神話がなくなった現在においても、我々の中に神は確かに存在し、存在することでそこに神話が産まれます。この物語は神話であり、誰にでも起こり得る話であると信じています。
瞑想を考えます。
我々の大多数は日常生活では瞑想をしません。瞼を閉じること、瞑想はしませんが、私たちは一日で約一万五千回の瞬きをします。瞬きは私たちが生きている証でもあります。瞑想…瞼を閉じること…瞬きとした場合、我々は数限りない瞑想を人生の中で行っています。そして同時に我々は数限りなく考えます。日常のこと、周囲のこと、自分のこと。瞑想とは、心落ち着かせ精神を集中し、俗世の思考を取り除き、世界と宇宙と繋がり一つとなる行為です。無我の境地です。考えないこと。瞑想は「考えないことを考える」行為です。本能から離れた我々が他の動物とは一線を引く「考える」行為。「考えないことを考える」、瞑想は考える我々に与えられた最高の贅沢であり、究極のパラドクスです。
笙とソプラノの音により夢幻の境地へ、贅沢な空間の中、誰しもに共通するこの物語を是非「考えて」みて下さい。。
(渡辺裕之)